「長い話」

鉄研へ行こう!傑作選エピローグ

 

 楽しんだ方も、楽しめずここまで来てしまった方も残念ですが「鉄研へ行こう!」はここまでです。

 この漫画をUPしようと思ったきっかけは当サイトのBBSで、私が「母校の文化祭に行って鉄道研究部の展示を見に行った。

卒業してから4年も経つのに、私の現役時代を知らない部員から部の機関誌に寄稿して下さいと依頼があって、4年ぶりに漫画を

描いた。掲載がこの文化祭で頒布される100号で、部員・OBに大好評だった」という書き込みに端を発した。

 この書き込みに対して、私と同じように鉄道研究部で活動してきた方々から少しではあるが反響があったのだ。その返信の中に

「高校時代に鉄道研究部の改革をしたが、今は学校によって酷い事になってしまった」「大学の鉄道研究部は酷い有様で、立て直す

事もなく辞めた」「もっと気楽に出来るクラブはないんでしょうか?」という書き込みがあったのだ。

 

 まずお詫び。私は聞き役に回る事が多いが、それは時として疲れる場合がある。しかし話し役はどうか? 私の話を聞いて!

それは悲しかった事でも辛かった事でも、たいていの場合が自慢話だ。私って偉いでしょう? 誰しもが心のどこかでそう思って

いるはずだ。本当に悲しかったら、話す事なんてできない。辛かった事を他人に話せるまでに乗り越えたのだから、自慢していい

という考え方も出来る。これから始まる長い話、ぴじょんの自慢だと思って読みたくなければ飛ばして構いません。また読んで

「ただの自慢話」と不快になってしまう方もいる事でしょう。先にお詫びします。

 もう一言。誤解を招くといけないので先に申し上げますが「こんなことをやった」と書いてあっても、私ひとりでやった事では

なく部員や顧問の先生が協力してくれたからこそ、実行できた事です。読むのであれば、これを踏まえて下さい。

 

 私は高校・大学と鉄道研究部に所属していた。

 

 高校では鉄道「研究」部という名でありながら研究らしい活動は全くしておらず、文化祭でも教室にNゲージが走っているだけ

という有様だった。これでいい、という人もいるだろうが、私は「看板に偽りあり」と思っていた。

 そんな思いを秘め部長就任、部員は2年生の私だけになった。やっとの思いで入部した新入生はひとり。すぐに2〜3年休眠

していた機関誌を復活、1年生の教室や職員室に配り歩いた。文化祭ではモジュールテーマを「併用軌道」とした、評価が厳しく

予算が少なかったので方眼紙で道路や建物、踏切を作る他なかった。「研究」部としてアピールする為、研究論文を載せた機関誌を

発行。また教室の壁はカラーコピーした写真を貼った模造紙やモジュールを走る車両の解説で埋めた。見るだけではだめだと思い

来客、特に子供には懸命に接客応対した。物を売っている訳ではないのだが。

 3年。新入生が3人入部した。ひとりは生徒会活動が忙しくなり幽霊部員になったが、私も生徒会役員だったので黙認した。

大所帯ではないが、部員がふたりきりという状況ではなくなったので、まとめる為に鉄道研究部をひとつの鉄道会社と見立てた。

模型の線路敷設や都市計画、運転もそうだが、予算の使い方や研究視点の多角広角化、文化祭での接客応対の更なるレベル向上を

「鉄道会社経営ごっこ」といった感覚でできるようにする為だ。研究を深くするなら、楽しみながらやらなければいけない。当初の

目的は本当に「ごっこ」だったのだけれど。活動は昨年以上に盛んになり、学校内での評価も「何をしているのかわからない暗い

鉄ヲタ集団」から次第に変わっていった。校内の他の文化部とも交流し、顔が自然と広がっていった。機関誌や研究論文の反響も

悪くなく、OBの方々から「アイディアの○○高校(鉄研)」と言われていた。そんな折である。

 

 私が神経症になった。簡単に言えば「軽いうつ」である。心の病気に重いも軽いもないと思うのだけど。私がいた学校は特殊で、

専門分野についてだけだが、大学で教える事を高校で教えていた。それが自分の理想と違うと思った、それが世間と自分の間に

溝が出来て広がっていった、それに着いていく気がしなかった、それに着いていけなかった。偏頭痛がした、一日中だるかった、

何もする気が起きなかった、毎日どうやって死のうか着る服を悩んでいる時のように考えていた。死ぬだけじゃなく耳を切り

落とそうとか局部を切って男でも女でもない純粋な「人間」になろうとか考えたりもした。カッターで手首を切るのは思ったより

難しいな、包丁は料理に使うものだからダメだな、とか生きる事への未練はあったけど。何かしなきゃと思って、ポストカードに

猫のイラストを描いた。何枚も何枚も何枚も…。そんな時に助けてくれたのは、鉄道研究部だった。神経症の治療中、放課後、

私服で鉄研部室に行った。部長は交代していた。「私服なんかで来てるよ〜」と言って迎えてくれた。病気の事は知らないみたい

だった。でも、迎えてくれる人がいるのは嬉しかった。

 そうこうしていて2ヶ月経ち、学校に復帰しギリギリの単位で卒業した。

 そんな成績だったから行ける大学なんてたかが知れていた。でも就職も出来ない。進学した。当然、鉄道研究部に入った。

高校より酷かった。模型しかやらない、進まないNゲージ線路敷設、新入生を寄せ付けない先輩の雰囲気、派閥。辞めて

他の部に移籍しようと思ったが、友達に「一緒に部を変えよう!」と誘われ踏みとどまった。帰りがけ、彼と毎晩コーヒーを

飲みながら次の部組閣、方針など考えた。文化祭での部長交代かと思ったら、先輩の卒業まで待たされた。

 春、部の運営方針を丸々変えた、ここは鉄道を「研究」するクラブだと。そうそう、新入生が4人入部したんだ。ひとりは

「みんなのレベルに着いていけない」と言って辞めてしまった、とても残念だった。部員がみんな鉄道模型が好きだった為

模型一辺倒のクラブになってしまったが「実物の研究を模型に反映させる」という「模型から車両や路線などを研究する集団」

になったので、まぁいいかと。実際、主力メンバーは実車や路線、歴史の事を熟知しており、いつでも論文が書けるような

人ばかりだった。互いに刺激しあったのもよかった。また線路総延長の短縮と、敷設スピードのアップを目指して模型線路の

モジュールパネル化を推し進めた。ちなみに方針は「写真でも模型でも鉄道に関する事なら好きな事やっていいから、趣味を

研究と言えるまで高めろ」自由だが厳しかったかも。えぐいこともやった。部の仕事をしなかったり、足を引っ張ったりする

奴は意地でも活動に参加させなかった。

 待ちに待った文化祭である。高校と同じで、接客応対の徹底を指示した。しかし文化祭が、勝手に立ち上がった学校イベント

の為に破壊されそうになった。学校と全く縁がない、例年の客層を無視したイベントである。またその計画は全く出来上がって

おらず「やる」ということが生徒の同意のないまま決まっただけで、企画書や予算案のひとつも出てこない状態だった。

予算を立ててみれば、文化祭予算のほとんどを使い切るような計画。全ゼミ・全クラブはこれに猛反発、全ゼミ長・全部長は

このイベントを何とか阻止しようと奔走。妥協案に持ち込む事で精一杯だった。クラブの部長は文化祭実行委員にはなれない

のだが、文化祭計画の立て直しを図るべく半強制的に役員になった。私のように強引に委員になったのは他にもいるけれど

(そうは言っても実行委員の賛成による)。イベントを推し進める代表者とサシで会って「こんな争い、バカバカしいよね」と

言われた事もあった。文化祭当日、その代表者に「イベントの整理券を配ってから開場まで時間が空くのだけどイベントを

見に来たお客さんを待たせては申し訳ない」と言われて「待ってる間に文化祭を見てもらえばいいだろう!!」と怒鳴った

事もあった。この文化祭での話は語っても語りつくせないほど、毎日が戦争だった。学校内では完全に悪者になった。

共に実行委員に潜り込んだ仲間と話せば、まだまだ話が出るだろう…。

 馬鹿な事をした、このお蔭で就職活動をふいにしたのだ。

 鉄道研究部だが、後輩全員研究が深く、またクラブや文化祭というのを理解してくれていたので、安心して引き継いだ。

しかしBBSにも書き込まれていたのだが「形あるものはいつか壊れるとは、よく言ったもの」大学の鉄道研究部では

築きあげてきたものがあっという間に消えていた。違う形であったり、とって変わったりしたのではなく、何も残って

いなかったのだ。

 

 何でこんな話をするの? 教訓めいたことを言いたんじゃない。読んだ人が何か感じ取ってくれれば、ただそれだけの事。

 もう語り疲れたので、長い話はこの辺までとさせて頂きます。

 

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